6000勝達成した読売巨人軍に貢献した投手

毎度おなじみ昭和20年代野球倶楽部です

昭和時代をはじめとする、古き良き野球を後世に伝えていくために存在する昭和20年代野球倶楽部です。2020年プロ野球が開幕してから2週間チョットが経過。やっぱり野球がある日常って、素晴らしいと思いませんか?

というわけで今回は、開幕日に勝利して、球団通算6000勝を記録した読売巨人軍に在籍していた選手を紹介します。通算6000勝のうち、貢献した勝利数はわずかながら、インパクトある活躍をした投手にクローズアップします。

知る人ぞ知るマニアックな選手を紹介

今回紹介するのは、現在もセ・リーグ記録を誇る「20連勝」を達成した、知る人ぞ知る左腕・松田清(まつだ・きよし)投手です。

昭和26年から翌27年にかけて、当時のプロ野球新記録となる20連勝を記録するも、翌28年から登板数が激減。前回登場した小野正一投手と同じく、パッと咲いて散っていった…という表現が正しいかわかりませんが、なにやら不思議な投手を紹介しましょう。

昭和20年代野球倶楽部は、現役時代に素晴らしい活躍をしたにもかかわらず、それほど有名ではない「隠れた名選手」たちを紹介して、現代の野球ファンにそのスゴさを伝えたい…という、おせっかいな使命感を持って活動しております。

無名の存在からセ・リーグ記録保持者に

松田清は東京都渋谷区出身。昭和24年夏、中野高校から巨人軍にテスト生として入団。もともと投手でしたが、肩を壊して主に一塁手としてプレーしていました。

投手に返り咲いたのは、プロ2年目の昭和25年の夏。ファームの地方遠征に参加していた松田清は、疲労困憊の味方投手の制球難を見かねて、当時の宇野光雄二軍監督にマウンドに登ることを直訴。結果、好投をみせて、秋口には投手として一軍昇格を果たします。

覚醒した昭和26年の松田清

昭和25年は一軍で3試合に登板した松田清。10月24日の大洋戦でプロ初先発を記録し、シーズン終盤の11月4日の国鉄戦では、あの金田正一と投げ合い、見事プロ初勝利を挙げます。

その素質が開花したのは、翌シーズンの昭和26年。シーズン開幕から好投を続け、5月23日の広島戦で5勝目を挙げてから、連勝街道は止まりません。あれよあれよと勝利を重ね、シーズンも終盤に差しかかった10月4日の対名古屋戦でついに19連勝を達成します。

突然変異したシーズンを終えた松田清。19連勝は1シーズン連勝のセ・リーグ記録であり、その昭和26年は、最優秀防御率(防御率2.01)、最高勝率(23勝3敗、勝率.885)、さらには新人王のタイトルを獲得するなど、まさに覚醒したシーズンとなったのです。

いまだ破られぬセ・リーグ記録

迎えた翌シーズン、昭和27年に松田清は大記録を達成します。3月22日の国鉄戦に勝利して、自身の連勝は20に到達。当時のプロ野球記録である20連勝を達成したのです。

しかしながら、昭和27年は37試合に登板して、13勝(7敗)に終わった松田清。防御率3.17と平凡で、シーズン通じての活躍ができなかったといいます。

さらに翌年の昭和28年から登板数が激減。同年は11試合、翌29年は6試合、さらに昭和30年はわずか2試合の登板に終わります。

短命といえども、その功績は偉大

なぜ活躍できなくなったのか。伝え聞くところによると、本人の「真面目すぎる性格」が災いしたとか。ここからは個人的な空想の世界に入りますが、松田清は真面目でもあり、義理人情に厚く、その気持ちが空回りしてしまったのでは…と勝手に考察します。

俠気あふれる松田清

昭和31年には、二軍時代から松田をかわいがっていた宇野光雄が、国鉄の監督に就任すると、松田も国鉄に移籍。「環境を変えて、心機一転で野球をやってみんか?」という会話があったかどうかは解りませんが、ここにもドラマを感じます。

プロ2年目の夏の地方球場で、ストライクが入らない味方投手に代わって、マウンドに登ることを直訴した俠気(おとこぎ)あふれる松田清。その想いを意気に感じて、投手失格だった松田清を投手起用した宇野光雄

これがきっかけで一軍昇格を果たし、さらには20連勝を記録…と、サクセスストーリーを体現した松田清と宇野光雄の間には、特別な関係があったのでしょう。

その後の松田清は、同年に投手として2勝を挙げたあとは外野手に転向。昭和32年から昭和35年頃まで、毎年100試合以上出場するなど、外野の準レギュラー格として活躍しました。

義理人情に厚い?その性格が裏目に?

昭和36年に引退した松田清。写真は巨人軍時代の水原茂監督に労(ねぎら)われているシーンです。20連勝中かどうかは不明ですが、当時20歳そこそこの若造が、あの水原茂に握手を求められる…写真からも、松田清の緊張している表情が伝わってきます。

20連勝がストップしたのち、「もっと頑張らないと」「(水原監督や宇野監督に)迷惑はかけらない」といった、義理人情に厚い性格が災いして、松田清は自分を追い込みすぎてしまった…これが20連勝以降は尻つぼみになってしまった原因なのかもしれません。

パッと咲いて、パッと散った、いわゆる短命選手だった松田清。しかしながら、巨人軍6000勝のなかには、彼の白星も含まれており、さらにはセ・リーグ記録も樹立した名投手であることは間違いありません。読売巨人軍はもっともっと、松田清の功績を讃えて欲しいと思うのは、私だけではないでしょう。

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