ビクトル・スタルヒンを知っていますか?

毎度おなじみ昭和20年代野球倶楽部です

昭和時代をはじめとする、古き良き野球を後世に伝えていくために存在する昭和20年代野球倶楽部です。今回は日本プロ野球創生期を駆け抜けた、ひとりの投手を紹介します。

スタルヒン登場!

ビクトル・スタルヒン

名前くらいは聞いたことがあるでしょうか。写真はビクトル・スタルヒン。昭和期前半のプロ野球で大活躍した、往年の名投手です。スタルヒンの移籍遍歴を記すと…。

  • 1936年~44年:東京巨人軍
  • 1946年~47年:パシフィック・太陽
  • 1948年~53年:金星・大映
  • 1954年~55年:トンボ

1936(昭和11)年2月5日。現在の読売巨人軍の前身にあたる東京巨人軍と、前年暮れに発足した大阪タイガースの両球団をはじめ、名古屋軍東京セネタース阪急軍大東京軍名古屋金鯱軍の合計7球団からなる、日本職業野球連盟が設立。同年4月には第1回リーグ戦が開催されました。これが現在の日本プロ野球ペナントレースの前身です。

さらに同年7月には、開幕直後はアメリカ合衆国遠征中のため不参加だった東京巨人軍も参加して、連盟結成記念のトーナメント戦を開催。そんな産声をあげたばかりの日本プロ野球界で大活躍し、数奇な運命を辿ったのが、ビクトル・スタルヒンなのです。

波瀾万丈の野球人生

ロシア生まれのスタルヒン

今から100年以上も昔の話。1916(大正5)年5月1日、ウラル山脈付近で誕生したスタルヒン。当時は第2次ロシア革命の最中で、迫害されたロマノフ王朝の将校だった父の影響で、一家は革命軍に追われながら、シベリアを横断。国境を越え、当時は日本の支配下にあった満州まで命辛々、逃げ延びたという悲劇の幼少期を過ごします。

1925(大正14)年、入国に必要な大金をなんとか支払って、日本に亡命したスタルヒン一家は、北海道の旭川に辿り着きます。当時6歳だったスタルヒンは、無国籍の「白系ロシア人」として、日本の地を踏み、初めて野球と出会います。

味方のエラーで甲子園出場ならず…

日本で野球と出会い、みるみる野球の才能を開花させたスタルヒン。17歳の頃には、チームを全道大会準優勝に導くなど、旭川中のエースとして大活躍。しかしその時、自身の父親が殺人事件を起こして服役。スタルヒンは学費も払えない、貧しい生活を送ることになってしまいました。

野球の実力は秀でていたスタルヒン。仲間の部員たちはカンパで生活費を集めるなど、当時の旭川中関係者はスタルヒンの力を借りて「何とか甲子園出場を」と、必死だったといいます。しかし結果的には、味方のエラーなど、バックに足を引っ張られて、スタルヒン甲子園デビューは果たせませんでした。

史上初の300勝投手

ルースやゲーリックと対戦も

それほどの実力者を、当時の野球関係者が放っておくはずがありません。日本職業野球連盟が設立される前、つまりプロ野球が誕生する前の1934(昭和9)年の11月に、読売新聞社主催日米野球が開催されることになりました。その全日本メンバーに、スタルヒンの名前があったのです。

このニュースに一番驚いたのは、何を隠そうスタルヒン本人。当時はまだ学生の身分で、甲子園出場を目指すため、全日本には入団しないという本人の承諾を得ず、出場選手として新聞に載せてしまったのです。結局、前述した経済的な理由もあり、全日本に入団したスタルヒン。あのベーブ・ルースルー・ゲーリックらと対戦したという記録が残っています。

須田博登場!

その全日本チームが母体となって、1935(昭和10)年には大日本東京野球倶楽部が誕生。アメリカ遠征にも帯同したスタルヒンは、あの水原茂と同部屋になったときに、「アメリカは外国人ばかりですね」と言ったり、「外国人っ対してて全然、日本語喋らないんですね」と話し、水原を呆れさせたというエピソードもあります。

その後は前述のとおり、1936(昭和11)年にプロ野球がスタート。生まれ変わった東京巨人軍に入団したスタルヒンは、課題だった制球難を克服。1937(昭和12)年にはノーヒットノーランを達成するなど、同球団に所属していた同じ歳の沢村栄治と肩を並べるまでになりました。

しかし、その年から日中戦争が勃発。沢村栄治が徴兵制でチームを去ると、敵性語とみなされたスタルヒンの名前は、須田博(すた・ひろし)と改名。スタルヒンの発音に近いとの理由で、この名前に変えたと言います。

日本野球に骨を埋めるも「謎の死」

戦後は、進駐軍の通訳となったスタルヒン。その後、巨人軍から復帰を要請されるも、頑なに拒否。しかし日本球界には復帰して、1946(昭和21)年に日本プロ野球が復活すると、パシフィックで1勝を挙げて通算200勝を達成。その後は金星・大映で最多勝に輝くなど活躍。トンボ時代には当時は日本初となる300勝を達成するのでした。

その年の1955(昭和30)年で現役引退したスタルヒン。引退後はラジオのパーソナリティーや、バラエティ番組の司会に転身して、忙しい日々を送っていました。

しかし1957(昭和32)年1月12日に、東京・玉川線三宿駅前で電車に激突して、40歳でこの世を去ります。自動車で「旭川中同期会」に向かう途中でしたが、会場の方向とは逆方向の道路を走っていたり、途中で同乗者の友人を降ろして、電車に乗ることを勧めていたなど、いろいろと不可解な死だったといわれています。

まとめ

スタルヒンの明るく、サービス精神旺盛な性格から、引退後の司会業は人気を博していたといいます。

  • 幼少時にロシアから亡命
  • 日本で野球と出会う
  • 甲子園出場を目指すも果たせず
  • 全日本選抜チームに仕方なく入団
  • アメリカ遠征も経験
  • 日本プロ野球誕生時から活躍
  • 162試合で100勝達成
  • 史上初の300勝投手に
  • 引退後は謎の死

スタルヒンにまつわるエピソードは数多くあります。また別の機会に発表しますのでお楽しみに!

ビクトル・スタルヒン

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