巨人軍歴代監督史上1位の勝利数を誇る川上哲治入団秘話
毎度おなじみ昭和20年代野球倶楽部です
昭和時代をはじめとする、古き良き野球を後世に伝えていくために存在する昭和20年代野球倶楽部です。
去る7月4日、あの長嶋茂雄監督の通算勝利数に並び、巨人軍歴代監督2位タイの勝利数を記録した原辰徳監督。勝利を積み重ねて、単独2位に躍り出るのも時間の問題でしょう。
ここでクローズアップされたのが、巨人軍歴代監督1位の勝利数を誇る川上哲治監督。あの不滅のV9を記録した名伯楽は、昭和のレジェンド選手でもありました。
今回はその川上哲治の知られざる入団秘話をお届けします。
野球古書からマニアックな情報を発掘
今回は、いまから70年ほど前の1951年【昭和26年】に発行されたベースボールマガジンから、巨人軍が川上哲治を獲得したときの話をご紹介。スカウトしたのはあの鈴木惣太郎でした。
昭和20年代野球倶楽部は、現役時代に素晴らしい活躍をしたにもかかわらず、それほど有名ではない「隠れた名選手」たちを紹介して、現代の野球ファンにそのスゴさを伝えたい…という、おせっかいな使命感を持って活動しております。
現役時代の川上哲治を知っていますか?
まずはおさらい。川上哲治といえば、昭和を代表するレジェンド選手のひとり。最近の若いひとは長文を読まないらしいので、ザックリとひとことで説明しましょう。川上哲治は「打撃の神様」です。
熊本工業では投手として甲子園出場
熊本県出身としても有名な川上哲治。文献を紐解くと、幼少期に父親が博打で破産したというショッキングな話も発見しました。
その生い立ちを調べると、5歳のときに砂利道で転んで右腕を負傷。もともとは右利きでしたが、このときのケガがなかなか治らず、左腕を使う生活を余儀なくされて自然と左利きになった…という逸話も。
野球に目覚めた川上哲治少年は、しばらくは左投げ右打ちの時代があったといいます。名門・熊本工業学校(現在の熊本工業高校)時代に左打ちに転向。
投手として頭角を現した川上哲治でしたが、プロ入り前の前評判が高かったのは、当時バッテリーを組んでいた捕手の吉原正喜。当時の最強バッテリーを擁した名門・熊工は、夏の全国中等学校優勝野球大会に2度出場して、いずれも準優勝に輝いています。
甲子園の土を持ち帰った第一人者?
2度目の甲子園出場となった、1937年【昭和12年】の決勝戦では、あの中京商の野口二郎と投げ合い、惜しくも敗れたという記録があります。
これも有名な話ですが、この決勝戦後、甲子園球場の土をユニフォームのポケットに入れて、母校である熊工野球部のグランドに撒いた…という逸話があります。
現在では当たり前になっている、甲子園球場の土を持ち帰る球児たちの第1号は川上哲治だった?と記す文献もありますが、これには諸説あり。
川上哲治は、甲子園大会の大会史に「記念に甲子園の土を袋に入れて持ち帰り、熊本工のマウンドにまいた」と寄稿していますが、これが第1号かについては後に「私ではない」と否定しているのです。
鈴木惣太郎氏の回顧録によると……
いずれにせよ、卒業後は父親から鉄道員になることを勧められたという川上哲治。一般的に語られているのは、前述した捕手・吉原正喜のほうが前評判が高く、同じ熊工野球部に在籍していた川上哲治は、その「ついで」として巨人軍入団を果たした…という説です。
打者としての素質を見抜いた鈴木惣太郎氏
しかし、1951年【昭和26年】のベースボールマガジンに記されている鈴木惣太郎の回顧録によると、その定説はやや間違っているということに気づきます。
電報では、いかに長文をもってしても、私の見た……私の惚れこんだ川上選手の打撃については、説明し尽くせるものではないと考えたからである。
ベースボールマガジン昭和26年11月号より
定説のとおり、やはり吉原正喜捕手を高評価していた巨人軍。しかし、現地の熊本まで赴き、スカウト活動していた鈴木惣太郎は、川上哲治の打撃力に注目。
熊本から東京へと打つ電報に、川上哲治についての推薦文を記して、獲得をプッシュしようとするも、すでに川上哲治に対しては低評価の印を打っている東京本部を説得するのは難しいと考えた鈴木惣太郎。
あえて電報には川上哲治ことは記さず、帰京してからのスカウト会議にすべてを賭けた…といいます。
決戦のスカウト会議
回顧録に記されているのは、鈴木惣太郎がいかに苦心して、川上哲治入団を球団に直訴したかという点。
結果、熊本で吉原正喜との事前交渉をまとめた鈴木惣太郎は、東京に帰ってから、今でいうところのスカウト会議で、川上哲治の素晴らしさを説いたといいます。
打者転向した川上哲治
その説得が実って、1938年【昭和13年】3月9日に、吉原正喜とともに、川上哲治は巨人軍に入団します。
決して「ついで」ではなかった川上哲治
鈴木惣太郎がいかに川上哲治の打撃に惚れ込んだかわかる一節がこちらです。
ただ感じ……直感ともいうか、むづかしく言えばインスピレーションとでもいうか、山下実選手やルウ・ゲーリックの幻影を追って、それが若い熊工の投手川上哲治選手によって、再現されそうな気がしたまでである……
ベースボールマガジン昭和26年11月号
つまり、巨人軍としては「ついで」程度の評価だった川上哲治ですが、鈴木惣太郎にとっては、あのルウ・ゲーリックをダブらせるほどの打撃センスを感じていたのでしょう。
鈴木惣太郎がここまで猛烈にプッシュしなくとも、なんとしても捕手・吉原正喜を獲得しようとしていた巨人軍は、川上哲治を「ついで」に獲得したかもしれません。
ただし、鈴木惣太郎の慧眼がなければ、投手・川上哲治で現役時代を終えていた可能性もあったのではないでしょうか。
打者転向で一躍スーパースターに
1938年【昭和13年】の春シーズンが終わり、秋シーズンに入る前の夏のオープン戦から、川上哲治は打者に専念。
当時のレギュラー一塁手だった永沢富士雄のケガで、急遽一塁手として出場した試合で3安打の活躍を目の当たりにした藤本定義監督から「ファーストミットを用意せよ」と言われ、川上哲治は大喜びしたといいます。
大喜びしたその背景には、川上哲治自身も、投手としての限界を感じていたから…ではないでしょうか。実際にプロ入り後の投手としての成績はパッとせず、自他ともに「軟投派」として認めていたといいます。
まとめ
鈴木惣太郎の慧眼もあって誕生した「打撃の神様」川上哲治。
打者転向後の活躍はご存じのとおり。プロ野球史上初となる2000安打を達成するなど、日本プロ野球界発展に大きく貢献したことは間違いありません。
仮に投手として現役時代を終えていたら、なんともったいなかったことか。
プロ野球創生期から、まさに日本プロ野球を象徴する巨人4番打者として1658試合に出場。通算打率.317、1130打点は、あのONでさえ敵わない成績です。
そろそろ字数もいっぱいです。「ボールが止まって見えた」などの名言については、また今度の機会に記すことにしましょう。
