ジャイアンツが産まれた場所

毎度おなじみ昭和20年代野球倶楽部です

昭和時代をはじめとする、古き良き野球を後世に伝えていくために存在する昭和20年代野球倶楽部です。前回のビクトル・スタルヒンの紹介から続きまして、彼の所属していた大東京野球倶楽部について、少しだけ紹介していこうと思います。

産声をあげた大東京野球倶楽部

前回の記事で登場したビクトル・スタルヒン。その項で触れたのが、所属球団の大東京野球倶楽部について。1934(昭和9)年12月、わが国初の職業野球チーム、大東京野球倶楽部が誕生。この球団こそ、現在の読売巨人軍の前身なのです。

当時の読売新聞社長だった正力松太郎氏米国大リーグの選抜チームを招聘。対戦相手として、東京六大学を中心とした選手を集結させて、大日本東京野球倶楽部が結成されたのです。

谷津遊園内のグラウンドで練習

大日本東京野球倶楽部の練習場となったのが、当時の谷津遊園内のグラウンドでした。谷津遊園は1925年(大正14年)に開園。所有していた京成電気軌道(現在の京成電鉄株式会社)の社史によると、当時の同社の経営は厳しく、打開策として遊園地による観光客の誘致を狙ったと記されています。

その後、谷津遊園内に整地したグラウンドを大東京野球倶楽部に提供。選手たちはトレーニングに汗を流しました。特に日米合同練習の日には、京成電気軌道の臨時列車が運転され、多くの野球ファンが観戦に訪れたといいます。

最寄り駅は谷津海岸駅という駅で、開業当初は、駅から直通の道がなかったという谷津遊園。利用者の声を反映して、京成は1927年(昭和2年)に、谷津遊園地前に専用の谷津遊園地駅を新設しました。谷津海岸駅の隣には花輪駅を設置し、そこからたった1.2キロの支線を延ばしたという記録が残っています。

消えた谷津遊園

大人気だったジェットコースター

残念ながら、現在は谷津遊園そのものがなくなっています。戦時中こそ一時休園した谷津遊園。しかし戦後になると、復興と歩調を合わせるように新しいアトラクションを次々と導入。多くの観光客が訪れ、特に当時は日本初の宙返りコースターだった「コークスクリュー」というジェットコースターは大人気だったそう。ちなみにその「コークスクリュー」は、現在は北海道にある遊園地施設で、まだまだ活躍していると聞いています。

理由は東京DL?

ところが、経営は黒字にもかかわらず、1982年(昭和57年)に閉園。その理由は、翌83年に開園した東京ディズニーランドの存在があったといいます。

当時、多額の借入金があったという京成電鉄。一方で、京成電鉄三井不動産オリエンタルランドを設立し、東京DLの開業を目指していました。そこで谷津遊園東京DLを天秤にかけたのかどうかはわかりませんが、谷津遊園の土地を日本住宅公団(現・都市再生機構)へ売却することを検討していたといい、現在の谷津遊園跡地には、多くの住宅地が軒を連ねています。

幻の支線

前述した1.2キロの支線も、路線が延びてすぐに遊園地までの道路が完成したことで、利用者が激減したといいます。1931年(昭和6年)に支線は営業をやめてわずか3年後に廃線となりました。

さまざまな遍歴を経た谷津遊園のグラウンド内に存在していた谷津球場アフターコロナに、野球好きなら一度は訪れてみたい球場跡地といえるでしょう。

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